医療教育情報センター

No189 高齢者の自然死・平穏死

 人間は生まれたら100パーセント死ぬ。これはよく言われることであるが、現在のわが国では、死ぬことを病気と捉え、最期の段階になっても医療が行われている。これは、8割の人が自宅で死にたいと願いながら、病院で亡くなっている人が8割という数字になって表れている。
 患者側の理由としては自宅で十分な医療を受けられない心配や、自宅に帰ると家族に迷惑をかけるということがある。医師側の理由としては病気でいったん入院すると、胃ろう、人工呼吸、透析など命を延ばす方法がありながら、それをしないと「不作為の殺人」の罪に問われないかという怖れがある。食べられなくなった患者の家族が胃ろうを拒否すると「餓死させるのか」「見殺しにするのか」と医師が迫ることが少なくない。
 核家族が高齢化によってさらに介護能力が低下し、高齢者を自宅で看取ることができなくなったために、家族に代わって看取る“終の棲家”として作られた特別養護老人ホーム(特養)ですら、最期は救急車を呼び病院に送ることが普通になっている。
 こうした状況がありながら、最近、特養の配置医を務める二人の医師が特養で最期まで看取り、自然で平穏な死を迎えることが可能であることを実践によって示し、大きな反響を呼んでいる(石飛幸三「『平穏死』のすすめ」講談社 2010、中村仁一『大往生したけりや 医療とかかわるな』幻冬舎 2012)。
 両医師によると、一般の人に行われる常識的な医療は、穏やかな看取りが行われるべき高齢者には当てはまらない。老衰した体にとっては、必要なカロリーは質量ともに変化していく。入れすぎると簡単に嘔吐し、吸い込むと肺炎になる。高齢者は脱水になりやすいといって量を増やすと心肺が負担に耐えらず“溺死”状態になりかねない。
 死に際の飢餓、脱水は腹もへらない、のども渇かない。何らの医療措置を行わなければ、夢うつつの気持ちのいい、穏やかな状態になる。つまり、自然死・平穏死は「食べたくなくなったら食べない。食べさせない」ということになる。問題は、医療者と家族が“何もしないで見守られる”かどうかである。
 動物の「生命」と人間の「いのち」の違いは、人間は身体的だけでなく、精神的、社会的に死ぬことである。高齢者の場合は、身体的な死よりも精神的、社会的な死、つまり尊厳死が重要といえる。今こそ、高齢者の末期医療については、doing よりもbeing の意義を問い直すべきではないか。 (TI


高齢者 末期医療 特別養護老人ホーム 自然死・平穏死 尊厳死
(No189n;2012/10/12)


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